有事に備える



去年の話になりますが、中国漁船衝突事故がありました。

あのニュース、いろいろ考えさせられましたよねぇ・・。
中国という国のやり方も、日本政府の対応にも・・。


最近の中国のやり方、というとこれはもう、国際政治的な見方、あるいは経済的な見方から注意深くみていかないと、わからないことでありましょう。
でも、国際政治や経済の世界というものは、表には出ない(決して出せない)裏の出来事がひしめいています。
「陰謀論」でも書きましたが、新聞・マスコミの報道だけを見て、世界情勢・国内情勢を判断することは出来ないと思うんです・・。
この表には出ない「裏の問題」は、真理を求める者であれば、決して外せないテーマでしょう・・。
でも、本当は、もう一つ絶対に外せないものがあります。
それは「神霊界の争い」の話しなんですが、長くなりますので今日は書くのをやめて別の機会に譲りたいと思います。


ただ、こういう事件は、「何らかのメッセージが込められている」ということに着目していかなければならないと思うんです。

〈世の中が、いまこういう段階まで進んでいるんだよ、、。ほれ、準備を急ぎなさい、、、。〉

的な神様からのメッセージです。


はっきり言えば、有事は間もなくだぞ!というところでしょうか。
なんて・・。
偉そうに分かったような書き方してますが、ごめんなさい。実際はわたしも分かっていません。
ただ自分なりにいろいろ考察しているだけなのです。


さて、今回のテーマですが、「有事の心構え」にしたいと思います。
参考になるものが、ひらめいたからなんですが。


それはかつて読んだ『山岡鉄舟の武士道』という本の中に出てきます。
この本は明治維新の立役者、山岡鉄舟の話なのですが、面白い仕立てになっています。
山岡鉄舟の弟子に、籠手田安定(島根県知事、新潟県知事など歴任)という人がいました。
この籠手田安定が、師の鉄舟にいろいろな事を質問します。
その安定の問いに、師匠の鉄舟が答えた口述を、安定が筆記し、まとめたものです。
この本のおもしろいところは、安定が残した鉄舟の口述を、のちに安部正人という人が、勝海舟に評論を頼んだところにあります。


論客の勝さんは、江戸っ子らしく、別書「海舟座談」や「氷川清話」などでも、明治政府や福沢諭吉などバッサバッサ切り捨てる物言いがおもしろいのですが、ここでは明治維新の山場である「江戸城・無血開城」の立役者は鉄舟だ、と言い切りるのです。
実際に無血革命をやり遂げた張本人、勝海舟の口述が、またしびれます。


さて、前置きはこれくらいで、「山岡鉄舟の武士道 勝部真長編 -角川文庫- 〈鉄舟の至誠、西郷を動かす〉」から抜粋します。



~以下、勝海舟口述


『山岡がいかに武士道的人物であったか、またいかにそれを鍛錬しておったか、また彼の言行は一致するや否や、彼そのものの行跡の一部をあげて証明して聞かせよう。

戊辰の際、将軍慶喜公は上野に引きこもられて、恭順謹慎せられてござった当事、江戸市中は目も当てられぬ大騒動で、官軍はずんずん近寄り来て、大総督御本営はすでに駿府にまでご到着ということである。
この際、君公の恭順謹慎の誠意を朝廷に訴える者がいない。
悲嘆至極の境遇にたち至っていたその時だよ。忠勇金鉄のごとき、至誠鬼神を泣かしめる愛国無二の傑士・山岡鉄太郎が出た。

〈この時、勝先生の声音やや大にして、うたた古人を思い昔日を追念するの情に堪えられなく、話は中断して、先生の双眼、涙の溢れんとするのを見る。編者・安部正人覚えずその感にたたかれ、嗚咽の情、禁じえなかった)

そこで身命を顧みるものではない。直ちに官軍の大総督府にいたり、天下の迷いを説いて、主君の誠意を詳訴いたさんと、磐石のごとき大決心で、ひたすら思うところは前途愛国にあり、目前には江戸百万の生霊に代わって、一命を差し出そうというのだから、その至誠に出たところは、磐石をも貫く勢いで、かれこれ枢要の者共に協議したふうだ。

ところが俗物輩が相手になるものではない。そこで山岡は 「ばかを言うな、この際、猶予がなるものか!」 と言い捨てて、おれのところにやってきた。
おれに事の仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけは聞いていたけれども、いまだその心事が知れんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。

「先ず、官軍の陣営に行く手段は如何にするや。」

山岡答えて

「臨機応変は胸中にあるが、先ず、思い定めたところは、拙者一度官軍の陣営に入ったら、彼等が一刀の下に拙者の首を切るか、さもなくば縛するか、その二をでまい。しかるときは拙者は静かに両刀を解いて先方に差し出し、縛するというなら尋常に縄につき、切るというなら切られよう。
さりながら、なにほど敵だとて、かりにも人一人を殺すのに一言も言わせず、めちゃくちゃに切り殺すなど、然様な不条理なことは致しますまい。
拙者はまさに切らんとするとき、ただ一言、拙者は総督府に言上の節あり。万一その意にして不正と思うことあれば、そのときは速やかに断殺せられよと、一言述べようと思う。貴殿においては如何に思し召すか」

と、毅然とした決心の固いのには感服したよ。そこでおれは手を拍って

「よし、かくまで至誠確乎たる決心ならば、よもや仕損じあるまい」

と答えて、薩人・益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた。


全体、山岡という男は名前だけは承知していたが、このような人物とは夢にも知らなかった。
大久保一翁さえも、「山岡はお前を殺す考えだから注意せよ」とて、面会などはさせなかった。しかるにこの会合は、その後莫逆の交わりを結ぶ媒介となった。

以上のわけで、おれが山岡に添書を渡すと、山岡が

「勝さん。これで事は達した!」

と一言発し、躍然と立って江戸を発したが、後になって話を聞くに、山岡がおれに別れを告げて、江戸を発し駿府を指して品川、大森を経て、六郷の渡し場近くに行くと、もはや官軍の先鋒は縦隊をなし、旗幟堂々厳然と見えたそうだ。すると山岡は随行の益満を励まして、平気にこの真中を進行し、ここ本陣と思うところに進むや大声をあげて、

「われこそは朝敵の名を蒙りたる、源朝臣・徳川慶喜の家臣、山岡鉄太郎なり!
此のたび総督府の宮に嘆願を対し奉るの節ありて、往来するものなり!この段、わざわざ申し上げおく!」

と言うたそうだ。

陣中ただ一人取り押さえる者なく、ときの隊長・篠原国幹は、遥かに山岡の影の見えるまで見送りしたそうだ。
山岡は道を急ぎ駿府を指し、ついに到着して直ちに参謀・西郷隆盛の陣営に至り、面会を求め、西郷は異議なく面会を諾し、よって山岡は西郷に面し一礼をあらわし、直ちに真意を申して言うには

「拙者は徳川慶喜の家臣・山岡鉄太郎なり。先生のご高名はかねて拝承致すところでござる。
承るところ、このたびは朝敵征伐のため、東下せられる趣でござるが、全体、ご趣旨は曲直正邪にかかわらず進撃せられる訳でござるか、反乱さえ鎮定すればご満足でござるか、いずれかご決心を承りたし」

と言うを待たずして西郷は

「某(それがし)の軍に参謀するのは、もとより人を殺すのが芸ではない。ひたすら反乱を鎮定するのが大目的である。
御身は、なぜこのような判りきった言葉を以って、某に答えを求めるのか」

と容易に山岡を反問した。
すると山岡は、

「さようでござるか。ご趣旨ごもっとも千万でござる。ものの道理はさこそあるべきである。
そうであるなれば、わが主人徳川慶喜においては、恭順謹慎して上野東叡山の菩提寺にたて籠もり、閉居して罪を待っておりまする。生死のほどは、ただ朝廷のご沙汰次第でござる。
そうであるのに何の仔細があって、この大軍を進発なされるのでござるか」

と詰問すると、西郷自若として答えて言うに

「こなたは何を言われるのだ。生死はただ朝廷のご沙汰次第でござるとか、恭順謹慎しているとか言われるが、現に兵端を開いて抗戦しつつある証拠は、すでに甲州一円は官軍に敵対するという注進があった。
してみれば御身の言われるのは真実とも思われない。どこに恭順謹慎して、生死のほどはただ朝廷のご沙汰次第という実証があるのか」

と詰めただした。すると山岡答えて言うには

「さようでござるか。ご不審のさまは如何にもさもあるようだ。
さりながらわが主人慶喜公は、すすんで自ら誠意を現し、東叡山に閉居し、家臣等には厳しく恭順謹慎すべき旨、訓戒致しておりますが、なにぶん幾多の家臣中には主君の命に反し、あるいは脱走して各所に蜂起するやも計り難く、これは大いに主君の憂うるところでござる。またこのような鼠賊輩が出没いたしましても、わが徳川家には関係するところでござらぬ。
そのようなるが故に、微臣その義を推察して、主人慶喜が誠忠無二なる心事のほどを、ご陣営まで推参致したる次第でござる。
願わくば拙意のほど、大総督の宮へお取りなし下されたし」

と重々その意を陳情したところが、西郷暫時黙して返事をしそうもないので、山岡言葉を続けて

「拙者は主人慶喜の意を代表し、礼をとってかくは言上するのでござる。
このところを先生もしこの礼をお取りなし下されないならば、もはや如何ともせんかたなく、ただ、拙者死するのみでござる。
そもそも、このような場合に至ったならば、麾下八万の生命を惜しまないものは、微臣・鉄太郎のみではござらん。
かくなり至ったならば、幕府はおろか、未来日本の天下いかがでござろう。それでも先生は進撃はお止めになりませぬか。もしさようでござらば、〈王師の戦〉とは申されまい。
謹んで考えてみるに、〈天子は民の父母〉なり。非理を明らかにして不逞を撃つことこそ真の王師である。謹んで朝命に背反いたさずと申す忠臣に対し、寛典のご処分がないならば、暗雲四方に起こって天下いよいよ大乱となろう。請う、願わくば先生、少しくご推量下されよ」

と順々と至誠の情理が明白にあらわれてきた。すると、至誠金鉄の西郷だもの、なに悟るまいか。
たちまち形を正し、心を開いて言うには

「さきごろ静寛院の宮、並びに天璋院殿の使者が来て、慶喜恭順謹慎の趣旨を申し上げたけれども、むやみに狼狽して、その言動その秩序がない。いっこう道理がたたぬ。それらの使者が来たために、ひとしお疑惑を増してきた。
ところが、足下はそれら輩とは天地の違いで、初めて共に語るべきものである。
お話のほどは委細承知した。よって某は直ちに足下のご誠心を大総督の宮に言上してご命令を仰ぐから、ご苦労ながら暫時、休息せられよ」

と西郷は直ちに宮の御前に伺候し奉る。しばらくして帰りきて、宮の御前会議の結果、このような御命令であるとて、左の五ケ条を示して言うには

「第一、城を明け渡すべきこと
 第二、武器を出だすべきこと
 第三、軍艦を出だすべきこと
 第四、城兵を府外に移すべきこと
 第五、主師徳川慶喜は備前に幽すべきこと

以上の御命令である。
ご主人慶喜公において、真誠の恭順謹慎であるならば、誠忠無二の赤心を表せられたし。
以上の御命令を異議なくご尊奉あるならば、ここにおいて初めて寛典のご沙汰もあいなるべく、足下において、お請け合いできるや否や」

と問うや、山岡さっそく答えて

「謹んで言旨を拝承致しましたところ、右五ケ条のうち四ケ条は異議なく尊奉仕りますが、最末の第五の一ケ条、すなわち主人慶喜を備前に幽せられるとの御命令でござるが、この一ケ条目は臣鉄太郎において、お請け合い申し難き箇条でござる。
どうか再度のご評定下され」

と懇請すると西郷答えて言うに

「この議は朝旨より出たことで、われわれのかれこれと口を出す訳には参らぬ」

と言うと山岡押し返して

「仰せはもっともなことではあるが、先生のご尽力でご再定を願いたく、もしそうならなかったらならば、結局王師は人殺しの名を受けるでござろう。
試みにご一考なされよ。徳川慶喜を幽するなど申し聞けば、部下譜代の士は甘んじて承知は致しますまい。つまるところ、兵哨を開いて、王師に対抗すること必定でござろう。そうしたときには敵味方、同胞国民が幾万の生霊を失うでござろう。
このようなことは、畢竟王師が尋常の人殺し同様に思われるでござろう。まさか王師のとるべき方略ではあるまい。

尚、ご一考を求めたいことは、そもそも日本国に生を受けたわれわれが、各自主君として尽くすところは、古今同一である。もし、先生にしてご主人島津公が不運にしてこのような場合に立ち至り、朝敵の名を蒙るのならば、黙って先生は島津公を他人の手に任せ、異境の地にお移しなさるか。
不肖、鉄太郎の如きは死んでも主人を他人には渡しません。先生なんとお考えなさるか」

と、席を叩いて至誠の涙が溢れた。そこで西郷如何にも同感の情を押さえきれず、よくよく一考のうえ答辞をして言うには

「ああ、足下の言われるところ、至極道理である。ご説明の程、如何にもさもあるところである。
某、如何様にも徳川公の御為を計るであろう。足下さいわいにご心配無きよう」

と懇々と山岡を慰め、異議なく盟約を終わった。

西郷は山岡の至誠を丹心に徹入して、至情の感にたえずして、静かに立って山岡の肩背をなで、赤心を表わして言うには

「ああ、足下は稀有の勇士である。足下は得難い謀士である。真の武人である。実に虎穴に入って虎児を探るとは、すなわち足下のことである。
某は足下の大決心が、〈生きて帰らざる〉を察しておる。ああ、真に勇士で知徳兼備のもののふと言わなければならない。実に一国の存亡は足下の肩背にかかっている。足下さいわいに自重せられよ」

とて、懇々と至情をもらした。

そのときの両人の心事こそ、おれは重ね重ね思いやられてならぬ。
注意をしたまえ。この武士道の活用法を。おれは常にこの挙が追想される。

しかして陣営においては、こもごも厚く山岡に礼を尽くし、山岡の帰るにあたり、西郷は大総督府陣営通行の割符を差し出し山岡に渡し、山岡は深く厚意を謝して暇を告げ、営門にまで山岡を見送り、両者は別れを告げて山岡は江戸城に帰り来て、大総督の宮より御命令せられた五ケ条に基づき、西郷と盟約をなした顛末を、大久保一翁やおれ等に披露した。

おれは、そのときの山岡こそ、真の日本人と思うて今なお感謝する』




以上、ながながと引用させていただきました。


すごいですねぇ・・。鉄舟さん。いや、鉄舟先生とお呼びしますか。
日本人の大先輩として、尊敬の念を禁じ得ません。
幕末~明治の混乱期という稀有な時代だからこそ、こういう傑出した偉人たちが現れたのでしょうか・・。
それにしても、この心意気。普段から心身を鍛錬した方でなければ成し得ないでしょうね。


山岡鉄舟は、言わずと知れた「剣の達人」であり「禅の達人」「書の達人」でもあった。普段から心身を練磨して、胆力を鍛えていたのでしょう。
この本の他の稿を見ても、この鉄舟という方は「真理」を達観されています(もちろん海舟先生も)。


明治維新という革命を成し遂げた先人たちの精神を、同じく動乱期に生きるわたしたちも見習わなければならないと思うのですが、いかがでしょうか・・。


「有事に備える」とは、常日頃の鍛錬が必要なのでしょうが、仕事に追われる現代人には、なかなか「剣術」や「禅」「書道」などで、精神を鍛える暇などはないっ!・・・・と思うこと勿れ。

世界に冠たる松下電器(パナソニック)を興された松下幸之助さんの「物の見方・考え方」という本の中に、忙しなく日常を生きるわたしたちにも、有事の心構えを持つ訓練として参考になる箇所がありますので、ぜひ一読いただきたいと思います・・・。



「松下幸之助 物の見方・考え方 -PHP文庫-」より


『〈人多くして人なし〉という言葉を昔、ある先輩から聞いたことがある。昨今考えてみると、やはりその先輩の言葉が、本当にそうだな、とつくずく思い当たるのである。
会社には、随分多くの人が集まっており、普通の場合、間に合う人は大勢いる。
しかしさて、〈大事を見込んで間に合う人〉は、極めて少ないのも事実である。
それで世の中には〈人多くして人なし〉という言葉が言われておるわけなのであろう。

もちろん普通の仕事に間に合う人も、非常に大切であるけれども、事業に携わっていると、大事に直面するというようなことがしばしばある。その時に、その艱難を切り抜けるに当たって、役に立つ人は実際には少ないものである。
どういう人が、大事の場合に本当に役立つかということは、容易には判らない。

では、どういう人が大事の時に役立つかというと、私はいろいろ考えてみたのであるが、やはり知識とか経験とかいうことも、もちろん大切ではあるが、ただそれだけでは大事の場合に役には立たないような気がする。
それでは何が必要かというと「自分の利害を超越して事にあたる人」でなければならぬと思う。昔であれば、さしずめ「生命を賭す」というか、「大事においては死をも辞さない」という人である。

今日のような時代では、本当に命を捨てるということは極めて少ないが、「いざという時は命をかけても」というような気構えはやはりないといけないという感じがする。

そういう気構えを、常日頃の場合でも持っている人が、私にはやはり、「大事に臨んで本当に役に立つ人」だと思うのである。そうすることによって、知らず知らずの間に、そういう精神を養っていると思うのである。
その気構えがなければ、有事に及んでうろたえることになる。』



なるほど・・。
忙しない日常を生きるわれわれにも、有事に備える心構えの要あり。
「有事の心構え」をするには、起こり得るであろう事態を想定して、日々怠りなく日常を過ごす・・。

なんでしょうかね~。


素晴らしき先人たちの教えを請いて・・よしっ、明日からもできるだけ、正しく生きようっと!





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