喩え話


聖書の中でイエス様は様々な喩え話をもって、民衆に神の教えを分りやすく説いています。


きっと、神様から御使い役に降される教えというものは、難解で、普通一般の人間には理解し難いものなのかも知れません。
事実この喩え話の中で、弟子がイエス様に「なぜ、彼らに喩えでお話しになるのですか」と聞かれ、イエス様は『あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない』と、はっきりおっしゃられています。


イエス様はじめ、神仏の御遣いと呼ばれる聖者の方は神仏の教えを霊的智性で理解し、真理を達観していたであろうことは当然ですが、神様の教えというものは一般人は知ってはならない「秘儀」があり、例え教えられたとしても一般人には到底理解し得ないものなのでしょう。

そういう意味では、神より遣わされし聖者とは、正に天才・賢者です。
きっと生まれる前から神仏に仕え、前世・前前世から何度も生まれ変わって修行を積まれていたのでしょう‥。



今回は、イエス様の喩え話の中から「種蒔きの喩え話」を紹介してみたいと思います。
有名ですからすでにご存知の方も多いでしょう。
これは神様の教えを聞いた後の、人それぞれの悟り方、悟りを得た後の生き方について説かれていると思われます。





『種蒔きが種を蒔きに出て行った。

撒いているうちに、道端に落ちた種があった。
すると、鳥がきて食べてしまった。

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。
そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて塞いでしまった。

ほかの種は、良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

耳のある者は聞くがよい。

~中略

誰でも、御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者が来て、その人の心に撒かれたものを奪い取って行く。
道端に撒かれたものというのは、そういう人のことである。

石地に撒かれたものというのは、御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言葉のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中に撒かれたものとは、御言葉を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言葉を塞ぐので、実を結ばなくなる人のことである。

また、良い地に撒かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。』




以上、と~っても分りやすく説いて下さってますね。

この喩え話の中で言えば、わたしは「石地に撒かれたもの」‥でしょうか!?

恥ずかしながら、全くこの通りです。
迫害はさすがに起こりませんが、困難や意に沿わない事が起こると、神様の教えがどっかへすっ飛んでしまうのです‥。困ったもんだ‥‥。
こういう日常によく起こり来る困難などは、神様の試験みたいなものだと感じてはいるのですが、最近わたしは赤点ばかりです。

「お主は落第っ!」

と神様から宣告を受ける寸前かも知れません‥。
わたしも良い地に撒かれたものになれるよう、良い実を結べるようなりたい、、とまだ思っておりますので、何とか‥が、がんばりたいと思ってます‥。



イエス様の喩え話はまだありますが、また次の機会に譲りたいと思います。

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